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『光瀬龍 SF作家の曳航』

 大橋博之・責任編集『光瀬龍 SF作家の曳航』ラピュータ(09)を読んでいます。
光瀬龍.JPG 皆さんもそうでしょうが、私もお気に入り設定しているHPやブログがいくつもあって、その多くにはほぼ毎日訪れています。あっちこっちで得られる情報は、本当に重宝しています。この本はあっちで発刊の情報を得て「うわっ、そんな本が!」、こっちで発行されたと知って「うわっ、出たか!」となりました。
 購入したのは一昨日で、まだざっと眺めた程度ですが、いやいや、これは素晴らしい!
 光瀬龍はプライベートの露出が比較的少ない作家という印象がありましたが、とんでもない勘違いでした。こんなにいろいろと語られていたとは……。
 ショートショートと直接的な関係はありませんけれど、お勧めします!

 実は……。
 光瀬さんのことに思いを馳せると、それは宮崎惇さんとの思い出に直結してしまいます。
 私は宮崎さんの大ファンです。高校生のころにファンレターを書き、文通に近い関係ができました。大学に合格して上京してからは、宮崎さん(当時、長野に在住)が東京に来られたときには連絡をいただき、新宿の喫茶店でお話をするようになりました。
 何度か、「今日は光瀬さんを囲むファンの集いがあるんだ。これから行くんだけど、一緒に行かないか?」なんてこともありまして、言うまでもなく光瀬作品も愛読していましたから、否も応もありません。宮崎さんにくっついて、のこのこと会場まで向かったものです。
 会には、今日泊亜蘭さんが来られたこともありました。少し遅れて会場に到着された今日泊さんは開口一番、「絵図面がわかりにくくて、迷った」。――絵図面! この言葉は、いまだに忘れられません。(もちろん、地図のことです)
 竹宮恵子さんが来られたこともありました。うちには竹宮さんの色紙があって、たぶんそのときに描いていただいたものだと思います。1979年10月13日の日付があります。30年前ですか~。私が「奇想天外」でデビューしたのは同年10月末ですから、その直前だったのですね。このあたりの前後関係、すっかり忘れております。
 光瀬さん、今日泊さん、竹宮さん、そして宮崎さんにいただいた色紙をアップしておきましょう。どれも私にとって宝物です。(同じ日にいただいたものかどうかはわかりませんが、色紙のデザインから判断して、左の2枚、右の2枚はそれぞれ同じ日と思われます)
光瀬龍・色紙.JPG 今日泊亜蘭・色紙.JPG 竹宮恵子・色紙.JPG 宮崎惇・色紙.JPG
 それからしばらくして宮崎さんは体調を崩され、1981年に亡くなられました(享年48)。亡くなられる少し前、入院されていた病院(小諸)にお見舞いに行きましたが、その変わり果てたお姿を見て、号泣しました。私、24歳のときです。
『光瀬龍 SF作家の曳航』を読んでいると、そういったことまで甦り、不思議な感情に包まれてしまいます。今も、この文章を書いていて、涙腺が緩みました。
 本書には、光瀬龍ファンクラブ〈東キャナル市民の会〉の会報などに発表されたエッセイ類も数多く収録されています。私は〈東キャナル市民の会〉の会員ではありませんでしたが、金田真義さん(「奇想天外」誌で書評を担当していた三村遼)、三石ひろみさん(イラストレーター。拙作にイラストを描いていただいたこともあります)など、会員の方何人かと個人的な付き合いはありました。金田さんも宮崎さんと同じく、若くして亡くなられ……。そんな思い出も甦ってきますが、まあ、こんな読み方をするのは私くらいのものでしょうね。
 私の思い出なんて関係ない話でして、本書は光瀬ファン、SFファンへの最高のプレゼントと思います。重ねて、お勧めします!

 下の書影は――
『東キャナル年鑑1』東キャナル市民の会・トーキョー(77)
 光瀬龍の新作書き下ろし「西キャナル市二七〇三年」のほか、柴野拓美、川又千秋のエッセイなどを掲載。
『東キャナル年鑑VOL.2』東キャナル市民の会・トーキョー(79)
 復刻特集「初期光瀬龍の世界」として、「宇宙塵」掲載の8編、「SFマガジン」掲載の1編、「プレイコミック」掲載の1編、計10編を復刻掲載。ほかに、今日泊亜蘭、宮崎惇、光瀬龍の座談会「すべてゆききする光や風に ―日本SF揺籃期を語る―」も掲載。久しぶりに読み直してみましたが、これは超一級の資料と思います。
『東キャナル年鑑VOL.3』東キャナル市民の会(79)
 SF同人誌「宇宙塵」に連載された長編「派遣軍還る」を一挙掲載。宮崎惇、今日泊亜蘭のエッセイも。
「キャナリアン 第1号」東キャナル市総理府広報室(77)
 光瀬龍「ある日の日記から」ほか。
東キャナル年鑑1.JPG 東キャナル年鑑2.JPG 東キャナル年鑑3.JPG キャナリアン1.JPG
 私が所有している『東キャナル年鑑』はVOL.3までで、以降のことは知らなかったのですが、『光瀬龍 SF作家の曳航』を読んで、VOL.4も発行されていると知りました。1982年刊ですか。ほとんど記憶は忘却の彼方ですが、そのころには東京には住んでいなくて、〈東キャナル市民の会〉の方々とも疎遠になっていたのかもしれません。
 何しろ大昔のことで、思い違いや記憶の混乱があると思います(この記事全般に)。
 もし事実誤認がありましたら、ごめんなさい、であります。

【追記】
エルグ1.JPG この記事をアップしたあと、何となく懐かしくなって、古いファンジンのスクラップ・ブックを眺めていたら、SFファングループ〈SFマッドカンパニー〉の会報「エルグ」創刊号(79)に、光瀬さんを囲むファンの集いのレポートが掲載されていることに気がつきました。
 1979年4月8日。光瀬さんの51歳の誕生日を祝う集まりだったとのこと。ゲストのなかに宮崎さんの名前もあり、また今日泊さんが遅刻されたエピソードも紹介されていて(私の記憶とは少し違いますが)、もしかすると私が参加したうちの1回は、この日だったかもしれません。
> ゲストの方のお話の後、それぞれに自己紹介をした訳ですが、51歳、51歳と何度も
>言われ、苦笑なさっていました。けど、本当~に51歳なんですねェ。(アハ、ダメ押し)
 この部分を読んで、私も苦笑してしまいました。私は現在、51歳なんですよね(今月末には52歳)。20歳くらいの若者からは、そういう目で見られるわけですな(苦笑)。
 ちなみに、〈SFマッドカンパニー〉というのは〈東キャナル市民の会〉のメンバーが中心になって発足したグループだったような気がしますが、定かではありません。
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流転(ナガレウタタ)

東キャナル市民の会の末席をけがしているもので流転(ナガレウタタ)ともします。
おそらく光瀬先生のお誕生会で御目にかかったのではと存じます。
記事を読ませていただき、懐かしさで胸がいっぱいになりました、光瀬先生をはじめ宮崎先生、今日泊先生、言葉では言い尽くせぬほどのご恩をこむりました、それがどれほどすごい稀有ななことであったのか・・・当時はまだよく分っていなかった自分がはずかしくてなりません・・・
また金田真義さん・・・良き兄貴としてみんなから慕われておられました・・・私は金田さんに<ここは遠きブルガリヤ・・・>を唄っていただいた思い出があります、会友の石田純一氏は現在、70号を超えて個人誌「浮遊(プランクトン)ふぁんじん」発行し続けておりますが「金田さんによんでもらっていると思って作り続けている」といっておりました。
(じつは今、書いていて思い出したのですが我々がやった最初の光瀬先生のお誕生会に今日泊先生が雨の中やってこられて、光瀬先生のお年を聞かれて「50!(51?)お前50(51?)に成ったのかよ!!」と叫ばれたのに対して光瀬先生が何とも言えない苦笑いのような表情でうなずいておられました)今現在、東キャナルは活動らしい活動はしていないのですが月の第一日曜に新宿の喫茶店で夕方から例会の如きものをやっております。
懐かしさのあまりとりとめもないことを書きなぐり申し訳もありません、それでは失礼いたします。
by 流転(ナガレウタタ) (2009-07-22 23:29) 

香川治成(流転)

どうも失礼いたしました流転(ナガレウタタ)こと香川治成と申します、あと東キャナル年鑑は「夕ばえ作戦」の続編「指令B-3を追え」を採録したVOL4で終わり、「百億の昼と千億の夜」を扱う予定だったVOL5は未刊に終わりました、ただ数年前に編集スタッフだった石田氏が個人的に「浮遊ふぁんじん」増刊で「百億・・・」の特集号を出されて作品分析、用語集、SFM版と単行本の結末の対比などを行われておられます。
あと東キャナルの連絡誌「モコジャコウソウ通信」は四国の和田博義氏、武智利文氏のご尽力で刊行が継続しております
by 香川治成(流転) (2009-07-23 00:26) 

高井 信

 いらっしゃいませ。>香川さん
〈東キャナル市民の会〉の方からコメントをいただけるなんて、嬉しい限りです。おそらく私と同年代の方と推測します。金田さんは私にとっても、良き兄貴でした。
 いい時代でしたよね。もちろん嫌なこともありましたけれど、トータルとしては「楽しかった」に集約されます。
〈東キャナル市民の会〉の活動報告も、ありがとうございます。いまだに連絡誌が継続しているとは、驚きました。
 末永い活動を祈念いたします。

by 高井 信 (2009-07-23 07:08) 

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