『コント文學と創作法』
武野藤介『コント文學と創作法』文藝情報社(41)を読みました。コント作家である著者のコントを巡る考察をまとめた本です。眩暈がするような情報の洪水で、目ぱちくり口あんぐり状態に陥っています。
目次は――
序
コント文學序論
貧困なる短篇文學
堤中納言物語
西鶴の『萬の文反故』
一問一答 コント講座
諸家一家言集
座右言二則
「をち」の問題
コント作家の手記
解剖篇
雑記帖
附録 作品目録
この本が発行されたのは約70年前ですが、そのころの「コント」はまさに現在の「ショートショート」を意味していたんですね。――それが再認識できます。
まずは、「序」と「コント文學序論」から抜粋してみます。
>私がこれまで、あちこちに書き棄てゝきたコント文學に関する文章を、一本に纏めてみたのが本書である。(1ページ)
>私のねがひは今、(中略)わが一生に、「アラビア夜話」の故事にならつて、コント一千一篇を書きたいといふこと。(3ページ)
>コントを單に、「短篇小説を更に短くしたもの」と、小咄的に解釋してゐるのは、今も廣く一般に行はれてゐる誤謬で、私の「コント論」は、この誤謬の是正を據點としたものである。(中略)
> 現に、「コント」の元祖の如く云はれてゐる岡田三郎氏の、三十六篇の小篇を集めた小説集『誰が一番馬鹿か?』(昭和五年發行)の序文に、「今から六年ばかり前に、ぼくはコントと云ふものを文壇に紹介した。フランスのコント作家の作品を翻譯もしたし、自分でもコントを書いて發表した。單に短い小説と云ふだけで、短篇小説としての機構を碌に持たないやうな従來の短篇小説に、僕はあきたらなかつたのだ。(5~6ページ)
> コント文學の犯した數々の誤謬の中で、最も重大なる誤謬として指摘されるものが二つある。その一は「枚数」を短いときめたところから、一寸とした「思ひつき」で、誰にでも書けると思ひ込ませたことである。(中略)
> 今一つの誤謬は、我々の傳統的な原稿料問題である。小なるスペースしか持たないコントが、他の小説と同様、原稿料の標準を「枚數」に置いたといふことは、これまたコント文學の正しき發展を、どれだけ消極的ならしめたか、はかり知れないのである。(11ページ)
いかがでしょう。「コント」を「ショートショート」と置き換えても、ほとんど違和感がないのではないかと思います。ほかにも、たとえば、「チエーホフは短篇作家ではあつたがコント作家ではない。ルイ・フィリップもまた同様である」とも書かれています(206ページ)。ショートショートの見地から、私も同じ考え方です。
「一問一答 コント講座」では――
>問 コント文學で、私達が心得ておくべき一番大切なことは、何でせうか。
>答 コントも小説だといふこと。小品でも、スケツチでもない。コントは飽くまでも小説だからこれを忘れてはいけない。(25ページ)
と始まり、以下のような遣り取りもあります。
>問 コントは探偵小説と一脈通じるところのものがあるやうに思はれますが?
>答 結局、探偵小説の結末同様、いかにうまく讀む者を欺して、「をち」をつけるか、その點が、一脈相通じてゐると云へるかも知れません。探偵小説専門雑誌の『新青年』が、昔から、「コント」の理解者であるのは、決して偶然ではない。『新青年』から『佛蘭西モダンコント集』といふのが出てゐますが、これなどはコント文學研究の第一課として讀んでおくべきでせう。
>問 それから、新潮社版の『佛蘭西二十八人集』
>答 この二冊は絶版です。最近の出版では舶來傑作コント集と「註」のついてゐる『辯解夫人』が、玉川一郎譯で『モダン日本』から出てゐます。確か、これにも五六十篇。だいたい、これもコント集と見ていゝやうです。(40~41ページ)
『佛蘭西モダンコント集』博文館(29)は、私の探求書のなかでトップクラスの難関本です。う~~ん、「コント文學研究の第一課」ですか。入手はともかく、一度は現物を手にしてみたいものです。
ちなみに、谷口武譯『現代佛蘭西二十八人集』新潮社出版(23)は所有しています。玉川一郎訳『辯解夫人』モダン日本社(38)は本ブログで紹介済みです。
「諸家一家言集」では、木村毅のコメントに思わず「おおっ」と声を上げてしまいました。
> コントと云ふのは本來は「短篇小説」のことである。(中略)アメリカではシヨート・シヨート・ストーリイ(短篇中の短篇)などと呼ばれている。(46ページ)
この時代、すでに“ショート・ショート・ストーリイ”という言葉が日本に紹介されていたとは! いやあ、驚きましたねえ。
「「をち」の問題」では――
> コント作家のことをコントゥールと云ふ。寄席なぞの藝人が小話をやる。この藝人のこともコントゥールと云ふ。本來の意味は「嘘つき」と云ふのです。私はかねてよりこれを面白いと思つてゐます。乃ち、コントは「嘘を書く」といふことを、その特徴の一つとしてゐるのです。(60ページ)
> くどいやうですが、コントの面白さは、最後の「をち」「下げ」、乃ち、そのクヰツク・ターンにあるので、この結末が全體を覆す、如何に巧みに覆すか、それは手品師がタネを明かすやうなものです。(64ページ)
「解剖篇」では――
ルヴエ「集金人」、アブルケルク「五寸釘」、オー・ヘンリー「お巡りと讃美歌」、モウパッサン「歸村」、武野藤介「三面記事」をサンプルとして全文掲載。それぞれの解題を試みています。あ、言わずもがなと思いますが、ルヴエはモーリス・ルヴェルのことです。(右の書影は堀口大學訳『詩人のナプキン』ちくま文庫(92)。メデロ・エ・アブルケルク「五寸釘」が収録されています)
作品は収録されていませんが、この本には本ブログでも触れたことのあるフィシェ兄弟、トリスタン・ベルナール、アルフォンス・アレ、モルナール・フェレンツ、T・F・ポイスなどの名前も出てきます(文中では旧い表記ですが、ここでは現在の一般的な表記に)。
「コント作家の手記」は著者のアイデア・メモみたいなものですが、そのなかには――
>「肛門みたいなお婆さん」
> これを若い看護婦が云つたから面白いのである。(80ページ)
なんてのもあったりして、思わず苦笑しちゃいました。
巻末の「附録 作品目録」には数多くのコント集が紹介されています。私が知らない本多数。まさに情報の洪水で、ほんと、眩暈がしました。
というわけで、ものすごく密度の濃い読書タイムを過ごすことができました。
まだまだ道半ばですね。>ショートショート研究
【追記】
記事をアップしたあとで気がつきました。
『現代佛蘭西二十八人集』新潮社出版(23)には、モオリス・ルヴエ「集金人」も収録されています。
目次は――
序
コント文學序論
貧困なる短篇文學
堤中納言物語
西鶴の『萬の文反故』
一問一答 コント講座
諸家一家言集
座右言二則
「をち」の問題
コント作家の手記
解剖篇
雑記帖
附録 作品目録
この本が発行されたのは約70年前ですが、そのころの「コント」はまさに現在の「ショートショート」を意味していたんですね。――それが再認識できます。
まずは、「序」と「コント文學序論」から抜粋してみます。
>私がこれまで、あちこちに書き棄てゝきたコント文學に関する文章を、一本に纏めてみたのが本書である。(1ページ)
>私のねがひは今、(中略)わが一生に、「アラビア夜話」の故事にならつて、コント一千一篇を書きたいといふこと。(3ページ)
>コントを單に、「短篇小説を更に短くしたもの」と、小咄的に解釋してゐるのは、今も廣く一般に行はれてゐる誤謬で、私の「コント論」は、この誤謬の是正を據點としたものである。(中略)
> 現に、「コント」の元祖の如く云はれてゐる岡田三郎氏の、三十六篇の小篇を集めた小説集『誰が一番馬鹿か?』(昭和五年發行)の序文に、「今から六年ばかり前に、ぼくはコントと云ふものを文壇に紹介した。フランスのコント作家の作品を翻譯もしたし、自分でもコントを書いて發表した。單に短い小説と云ふだけで、短篇小説としての機構を碌に持たないやうな従來の短篇小説に、僕はあきたらなかつたのだ。(5~6ページ)
> コント文學の犯した數々の誤謬の中で、最も重大なる誤謬として指摘されるものが二つある。その一は「枚数」を短いときめたところから、一寸とした「思ひつき」で、誰にでも書けると思ひ込ませたことである。(中略)
> 今一つの誤謬は、我々の傳統的な原稿料問題である。小なるスペースしか持たないコントが、他の小説と同様、原稿料の標準を「枚數」に置いたといふことは、これまたコント文學の正しき發展を、どれだけ消極的ならしめたか、はかり知れないのである。(11ページ)
いかがでしょう。「コント」を「ショートショート」と置き換えても、ほとんど違和感がないのではないかと思います。ほかにも、たとえば、「チエーホフは短篇作家ではあつたがコント作家ではない。ルイ・フィリップもまた同様である」とも書かれています(206ページ)。ショートショートの見地から、私も同じ考え方です。
「一問一答 コント講座」では――
>問 コント文學で、私達が心得ておくべき一番大切なことは、何でせうか。
>答 コントも小説だといふこと。小品でも、スケツチでもない。コントは飽くまでも小説だからこれを忘れてはいけない。(25ページ)
と始まり、以下のような遣り取りもあります。
>問 コントは探偵小説と一脈通じるところのものがあるやうに思はれますが?
>答 結局、探偵小説の結末同様、いかにうまく讀む者を欺して、「をち」をつけるか、その點が、一脈相通じてゐると云へるかも知れません。探偵小説専門雑誌の『新青年』が、昔から、「コント」の理解者であるのは、決して偶然ではない。『新青年』から『佛蘭西モダンコント集』といふのが出てゐますが、これなどはコント文學研究の第一課として讀んでおくべきでせう。
>問 それから、新潮社版の『佛蘭西二十八人集』
>答 この二冊は絶版です。最近の出版では舶來傑作コント集と「註」のついてゐる『辯解夫人』が、玉川一郎譯で『モダン日本』から出てゐます。確か、これにも五六十篇。だいたい、これもコント集と見ていゝやうです。(40~41ページ)
『佛蘭西モダンコント集』博文館(29)は、私の探求書のなかでトップクラスの難関本です。う~~ん、「コント文學研究の第一課」ですか。入手はともかく、一度は現物を手にしてみたいものです。
ちなみに、谷口武譯『現代佛蘭西二十八人集』新潮社出版(23)は所有しています。玉川一郎訳『辯解夫人』モダン日本社(38)は本ブログで紹介済みです。
「諸家一家言集」では、木村毅のコメントに思わず「おおっ」と声を上げてしまいました。
> コントと云ふのは本來は「短篇小説」のことである。(中略)アメリカではシヨート・シヨート・ストーリイ(短篇中の短篇)などと呼ばれている。(46ページ)
この時代、すでに“ショート・ショート・ストーリイ”という言葉が日本に紹介されていたとは! いやあ、驚きましたねえ。
「「をち」の問題」では――
> コント作家のことをコントゥールと云ふ。寄席なぞの藝人が小話をやる。この藝人のこともコントゥールと云ふ。本來の意味は「嘘つき」と云ふのです。私はかねてよりこれを面白いと思つてゐます。乃ち、コントは「嘘を書く」といふことを、その特徴の一つとしてゐるのです。(60ページ)
> くどいやうですが、コントの面白さは、最後の「をち」「下げ」、乃ち、そのクヰツク・ターンにあるので、この結末が全體を覆す、如何に巧みに覆すか、それは手品師がタネを明かすやうなものです。(64ページ)
「解剖篇」では――
ルヴエ「集金人」、アブルケルク「五寸釘」、オー・ヘンリー「お巡りと讃美歌」、モウパッサン「歸村」、武野藤介「三面記事」をサンプルとして全文掲載。それぞれの解題を試みています。あ、言わずもがなと思いますが、ルヴエはモーリス・ルヴェルのことです。(右の書影は堀口大學訳『詩人のナプキン』ちくま文庫(92)。メデロ・エ・アブルケルク「五寸釘」が収録されています)
作品は収録されていませんが、この本には本ブログでも触れたことのあるフィシェ兄弟、トリスタン・ベルナール、アルフォンス・アレ、モルナール・フェレンツ、T・F・ポイスなどの名前も出てきます(文中では旧い表記ですが、ここでは現在の一般的な表記に)。
「コント作家の手記」は著者のアイデア・メモみたいなものですが、そのなかには――
>「肛門みたいなお婆さん」
> これを若い看護婦が云つたから面白いのである。(80ページ)
なんてのもあったりして、思わず苦笑しちゃいました。
巻末の「附録 作品目録」には数多くのコント集が紹介されています。私が知らない本多数。まさに情報の洪水で、ほんと、眩暈がしました。
というわけで、ものすごく密度の濃い読書タイムを過ごすことができました。
まだまだ道半ばですね。>ショートショート研究
【追記】
記事をアップしたあとで気がつきました。
『現代佛蘭西二十八人集』新潮社出版(23)には、モオリス・ルヴエ「集金人」も収録されています。
2010-09-23 09:15
コメント(3)
素晴らしい!
武野藤介さん、やりますねえ。
by 森下一仁 (2010-09-23 10:14)
ほんと、思い切り拍手を贈りたくなるような本でした。こんなに興奮して本を読んだのは久しぶりです。
星新一さんの言葉を彷彿させる記述も多く、それも楽しかったです。
by 高井 信 (2010-09-23 10:46)
国会図書館の個人向けデジタル化資料送信サービスにより、自宅で読めるようになりました。ぜひぜひ!
by 高井 信 (2022-05-25 06:41)