「星は生きている」整理
筒井康隆「星は生きている」を整理します。
「宇宙気流」第33号(1965年7月18日発行)の次号予告に「星は生きている 筒井康隆」と記載。しかし「宇宙気流」第34号(1965年8月21日発行)に掲載されたのは「ラッパを吹く弟」(櫟沢美也名義/伊藤典夫の解説付)だった。
実際に「星は生きている」が掲載されたのは、「パラノイア」第7号(1965年7月25日発行/伊藤典夫の解説はなし)だった。
で、現在、「宇宙気流」の未掲載原稿のなかに、「星は生きている」(伊藤典夫の解説付)が残されている。
発行日はあくまでも目安です。その日に発行されているとは限りませんから。
とはいえ、短い期間に何かあったことは確かです。いったい何があったんでしょうね。勝手に想像しますと――
もともと伊藤さんが筒井さんに託された原稿は2編あり、どちらも「宇宙気流」に掲載する予定だった。ところが、筒井さんのもとに「パラノイア」から寄稿要請があり、じゃあ、どちらかを「パラノイア」に回そうということになった。筒井さんの判断か伊藤さんの判断か、あるいは「宇宙気流」と「パラノイア」の相談の結果か、それはわからないが、「星は生きている」は「パラノイア」に、「ラッパを吹く弟」は「宇宙気流」に掲載されることとなった。
真相は当事者だけが知っている――わけですが、50年前の出来事ですからねえ。私だったら、たぶん忘れてます(笑)。
――書影は石原藤夫さんのファンジン資料集より――
「宇宙気流」第33号(1965年7月18日発行)の次号予告に「星は生きている 筒井康隆」と記載。しかし「宇宙気流」第34号(1965年8月21日発行)に掲載されたのは「ラッパを吹く弟」(櫟沢美也名義/伊藤典夫の解説付)だった。
実際に「星は生きている」が掲載されたのは、「パラノイア」第7号(1965年7月25日発行/伊藤典夫の解説はなし)だった。
で、現在、「宇宙気流」の未掲載原稿のなかに、「星は生きている」(伊藤典夫の解説付)が残されている。
発行日はあくまでも目安です。その日に発行されているとは限りませんから。
とはいえ、短い期間に何かあったことは確かです。いったい何があったんでしょうね。勝手に想像しますと――
もともと伊藤さんが筒井さんに託された原稿は2編あり、どちらも「宇宙気流」に掲載する予定だった。ところが、筒井さんのもとに「パラノイア」から寄稿要請があり、じゃあ、どちらかを「パラノイア」に回そうということになった。筒井さんの判断か伊藤さんの判断か、あるいは「宇宙気流」と「パラノイア」の相談の結果か、それはわからないが、「星は生きている」は「パラノイア」に、「ラッパを吹く弟」は「宇宙気流」に掲載されることとなった。
真相は当事者だけが知っている――わけですが、50年前の出来事ですからねえ。私だったら、たぶん忘れてます(笑)。
――書影は石原藤夫さんのファンジン資料集より――
2015-02-08 07:59
コメント(9)
「星は生きている」の伊藤さんの解説を受けて、「パラノイア」の紹介があったのかも知れませんね。
情報整理ありがとうございました。
by 尾川 健 (2015-02-08 20:28)
その可能性は大きいですね。
ブログを始めて以降、いろいろな方々が情報や資料を提供してくれるようになりました。
ありがたいことです。
by 高井 信 (2015-02-08 21:39)
ちょっと遅れましたが、当事者のひとりとして追加説明を。
基本的には高井さんの整理された内容の線と思います。
この時期、ぼくも詳しい記録を残していないので、細部は思い出せません。
1974年夏にDAICONがあり、秋にそのレポートを兼ねたNULL最終号が出ました。
ヌルスタジオの閉鎖はその年末だったと思います。
関西のSF同人誌が「パラノイア」だけになるので、規模拡大したいと、主宰の田路昭さんが、7号からはNULLに匹敵する作りにしたいと、各氏に寄稿を依頼しました。小生も同席したり、手紙でお願いしたり。
高斎さん山野さんには小生から依頼(ともに面識があったので)、小松さんにはふたりで依頼、筒井さんには田路さんから依頼したと思います。ファン、プロ混交の時期とはいえ、よく引き受けてくださったものです。(こういう経過があるから、ぼくも「夏色の想像力」からの話を断らないわけです)。
筒井さんは75年春に宝塚ホテルで結婚式。その時に来阪された伊藤典夫さんとは翌日に梅田で会いましたが、「星は生きている」について話した記憶はありません。
ちなみに田路昭さんとは、阪神大震災後、まったく連絡がつかないままで、確認のしようがありません。
結局、高井さんが整理された以上のことは、小生にも不明のままです。
by 堀 晃 (2015-02-10 21:00)
堀さん、ありがとうございます。当時を知る方のコメントは心強いです。
それぞれに掲載されるに至る経緯の真相は不明ですが、ともあれ筒井さんの処女作であることは間違いなさそうですね。それを多くの方々に認識していただけただけでも、ブログに書いた価値があったと思います。
by 高井 信 (2015-02-10 22:26)
さすが堀さんだと思いました。
年号について
>1974年夏にDAICONがあり
は、1964年夏にDAICONがあり
>筒井さんは75年春
は、筒井さんは65年春
だと思います。
堀さんなら当時のエピソードを山ほどお持ちなので
そんな話をどこかに書いてほしいものです。
by 山本孝一 (2015-02-11 09:10)
>堀さんなら当時のエピソードを山ほどお持ちなので
>そんな話をどこかに書いてほしいものです。
ファンダムの先輩方と会うたび、そんな話が出ます。みな、それぞれの体験談を書いておくべきという認識はお持ちなのですけれど、誰々さんに書いてほしいばかりで、ご自身もそういう立場であることを考えておられないようで……(苦笑)。
私は、堀さんにも書いてほしい。山本さんにも書いてほしい。
で、どなたか、日本SFファンダム通史、まとめてくれないかなあ。
「おまえがやれよ」という声が聞こえますが、私は60年代~70年代前半、なんにも知りませんし、また80年代後半以降はうといので、適任ではないと思います。お手伝いくらいなら。
by 高井 信 (2015-02-11 10:50)
以下の記事にも同じようなこと書いていました(笑)。
http://short-short.blog.so-net.ne.jp/2014-07-27-1
by 高井 信 (2015-02-11 11:06)
堀さん、貴重な証言をありがとうございます。
(「ふたつのヌルを知る男」、永遠の憧れです)
私などは後から追いかけるしかないので、皆さんの
お話を聞くと溜息が出るばかりです。少しでもいい
ので、またお話を聞かせて下さい。
by 尾川 健 (2015-02-11 17:28)
「NULL」や「パラノイア」、憧れですよね。60年代のファンダムを知っている方々、本当に羨ましいです。
by 高井 信 (2015-02-11 18:28)